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玖島くしま城跡
〒856-0834 長崎県大村市玖島

大村氏は鎌倉時代よりこの地の地頭として、大村地方を領有してきた。1587年(天正15年)、時の領主であったキリシタン大名大村純忠は、 豊臣秀吉の九州征伐の際に嫡子大村喜前(嘉前)を秀吉軍に参陣させ領土を安堵された。喜前も父と同じくキリシタン大名であったが、 後に日蓮宗に改宗している。1598年(慶長3年)の秀吉死後、政情不安に備えて玖島城の築城に着手し、翌1599年(慶長4年)には早くも 三城城から居城を移した。喜前は朝鮮出兵に参陣しているが、慶長の役の順天城の戦い(1598年)では、喜前を含む日本軍の五大名は 3倍以上の兵力を有する明・朝鮮軍を撃退している。この三方が海に面した順天城を参考にして築城場所が選ばれた[2]。江戸幕府開府後 も同地を領有し、大村藩(2万7000石)として明治維新まで存続した。城はその藩庁としての役割を果たした。

築城当時は北側が大手で、石垣は自然石を使った野面積みで築かれた。1614年(慶長19年)より大村純頼(1616年に第2代藩主となる)によって拡張 ・改修され、大手を南にし、打ち込み接ぎと呼ばれる工法で石の角や面を加工し、高く反り返る美しい扇の勾配をもつ石垣へと作り変えられた。この際、 喜前と親しかった加藤清正により設計指導を受けたとされる(但し、着工前の1611年に清正は死去している)。その後明治維新まで大規模な改築などは 行われていない。玖島城は一度も戦火にあうことはなく、明治維新後、1871年(明治4年)に廃藩置県によって廃城となり、建造物は破却された。 1884年(明治17年)、本丸跡に大村氏歴代を祀る大村神社が建立された。
1992年(平成4年)には板敷櫓が再建されている。

ウィキペディア(Wikipedia)より



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