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三瀬みつせ城跡
〒842-0301 佐賀県佐賀市三瀬村三瀬

【城の歴史】
脊振山地のほぼ中央に位置する三瀬村は、肥前国(佐賀県)と筑前国(福岡県)を往来する街道が三瀬峠を越えて通じており、古来より交通要衝の地でした。
三瀬城は、この交通路を臨む城山の頂部一帯(標高667m)に設けられた大規模な山城であり、山内(三瀬村・富士町・大和町など佐賀市の北部・脊振)一帯を支配する中核拠点として築かれました。いつ頃、誰が最初に三瀬城を築いたのかなどは不明ですが、戦国時代後半(16世紀頃)には、野田土佐守宗利(後、三瀬氏を名乗る)が城の構えをおよそ整えたようです。
そして、この三瀬城をさらに要害堅固な城へと大改造したのは、三瀬氏から支配権を譲られた神代大和守勝利(1511~1565)です。この後、彼は三瀬城を中心に山内の支配を強めるとともに、佐賀平野へも度々下って攻め込み、五州の大守と称された龍造寺隆信(村中城主。後に、村中城は佐嘉城へと拡張)と激しい戦いを繰り広げるなど大いに奮戦し、勇猛果敢な戦国大名として、その名を轟かせました。
彼の死去後、子息の神代長良が跡を継ぎ、三瀬城の城構えを最終的に整備しますが、敵対していた龍造寺氏と和睦し、さらには鍋島氏の家臣となるに至り、鍋島直茂は神代党の結束を避けるため慶長年間に神代家良を芦刈に転封させ、神代氏はやがて山内を離れていきます。その後、この三瀬城は戦いの場となることは無く、現在に至っています。
江戸時代には、佐嘉郡川久保・小城郡芦刈の領主へと移り、神代氏は佐嘉藩の重臣として仕えます。


【城の構造】
やや急峻な城山に築かれた三瀬城は、最高所の主郭(平坦な空間)と南東側下段の二の郭を中核区域とし、さらに南東及び南西に延びる尾根筋の小郭群によって、全体が構成されています。また、これらの東西両斜面には大きな竪堀・連続して並ぶ竪堀を、背後の北東側斜面には大堀切をそれぞれ配置しており、山全体を防御の縄張り(配置・構造)とする典型的な山城です。
城道は南側の谷筋(麓の「館」方向)から延びており、二の郭・主郭の虎口(出入口)へと続いています。その虎口(出入口)右脇に突出した郭空間が設けられていますが、これは侵入してくる敵を側面から攻撃する「横矢掛け」という独特の築城技術を採用したものです。


【城の特徴 土塁と石垣】
主郭・二の郭の周囲には土塁をめぐらせていますが、主郭の方は約2~5mもの高さで築いており、極めて強固な防御空間としています。佐賀県下でも最大級の土塁であり、まったく異例の規模・構造です。
また、両郭の土塁内側や虎口(出入口)には、野面石(自然石)を用いた石垣や石段が構築されていますが、県下の山城で石垣をこれほど多用する事例は他には勝尾城(鳥栖市・筑紫氏居城)しかなく、貴重な土木技術の事例でもあります。
さて、日本城郭の築城技術は「土造りの中世山城」から「石造りの近世城郭」へと進展していきますが、三瀬城には「連続竪堀」「虎口構造」「土塁・石垣」など、戦国時代としては最先端の築城技術がいち早く導入されています。
このように、三瀬城は勇将神代勝利の居城であるとともに、中世山城としての築城技術の高さを誇っており、今もなお、その威容をみごとに伝える貴重な城跡です。

平成25年3月 佐賀市三瀬支所



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