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肥前ひぜん
名護屋なごや城跡
〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3

豊臣秀吉の大陸制覇の野望の前線基地となった名護屋。
文禄・慶長の役に際し、加藤清正(きよまさ)、寺沢広高(てらさわひろたか)を普請奉行(ふしんぶぎょう)とし、縄張りは黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))が担当したもので、規模は東西約330メートル、周囲1.5キロメートルにも及ぶ広大な平城(ひらじろ)である。台地の頂上を本丸とし、二の丸、三の丸、山里丸、水の手曲輪(くるわ)などを備え、九州諸大名に手伝い普請を命じた。本丸には五層七階の天守閣が建てられ、往時の城の模様は1968年(昭和43)に世に出た「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(名護屋城博物館蔵)によって詳細にうかがうことができる。城は突貫工事で約6ヶ月後の文禄元年(1592年)3月に完成。 ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した肥前名護屋には、全国より大名衆が集結し、名護屋城の周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記しています。
唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治・経済の中心となり、全国から20万人を超える人々が集まり、繁栄したといわれている。
慶長3年(1598)、志半ばにして豊臣秀吉が亡くなると戦いは終結。朝鮮半島から兵は撤退し、名護屋城も廃城となります。築城から約7年の短期間しか使われなかった、まさに豊臣秀吉が築いた「幻の名城」といえる。

江戸時代に入ると、名護屋城が唐津藩に領有されるにともない、初代唐津藩主・寺沢広高によって、名護屋城天守は破却(はきゃく)されました。さらに、天守台の石垣も江戸時代初期に寺沢広高により破壊されたと推定されています。江戸時代には唐津藩によって「古城番」が置かれ、管理されていました。使われなくなった名護屋城の用材は、唐津城(佐賀県唐津市)の築城時に転用されたと考えられています。唐津城は、九州諸大名の加勢を受け、唐津城は慶長7年 (1602)から7年かけて完成。その後、唐津藩の中心は、名護屋城から唐津城へと移ります。
名護屋城も、寛永14年(1637)に起きた島原の乱の後、石垣が徹底的に壊される。それは、廃城であった名護屋城が、原城のように利用されることを防ぐためだったと考えられています。
天草四郎を盟主とする一揆軍は、廃城だった原城(長崎県南島原市)に籠城し、幕府軍は攻略に大苦戦しました。一揆鎮圧後、原城は、一揆軍や反乱軍に二度と使われないように徹底的に破壊された。

現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されており、平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定されました。


2024年8月20日
  • 名護屋城御城印

  • 名護屋城御城印

御城印2種

木下延俊陣跡では、敷石建物や玉石敷きなどの御殿に関する遺構や雪隠遺構、飛石列などの「茶の湯」に関連する遺構も発掘調査で発見。

九州に残された豊臣の一族・日出藩木下氏
日出藩の藩祖は木下延俊(のぶとし)で、豊臣秀吉の正室・高台院(北政所、おね、ねね)の兄である木下家定の子(秀吉からみると義理の甥にある)。 延俊の家系はもともとは杉原氏を名乗っていましたが、高台院の実家にあたることから、血縁の少なかった秀吉に重用され、豊臣姓である木下氏を名乗るようになり、延俊は兄弟の三男で、「関ヶ原の寝返り」で有名な小早川秀秋は実弟にあたり、子のいなかった高台院からは、甥である延俊の兄弟は大層かわいがられていたといわれています。

木下延俊は、関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)のとき、東軍で活躍した功績により、徳川家康により豊後国・日出3万石に封じられ、日出藩を開く。延俊は日出の地に入封するとすぐに築城に取りかかり、慶長7年(1602年)に日出城を築く。なお、彼の父・家定も、延俊とは別に備中国・足守(あしもり)2万5千石に封じられ足守藩を開いています。江戸時代を通して全国の大名は約260家を数えましたが、豊臣家につながりを持った大名は、この足守藩木下家と日出藩木下家の2家のみ。
2代藩主・木下俊治(としはる)の時代、父・延俊の遺言により、俊治の弟・延由(のぶよし)に5千石が分領されました。延俊の遺言では「1万石を延由に分領するように」とのことでしたが、藩の3分の1もの所領を分領すると藩の財政が立ち行かなくなることを危惧した家老・長澤市之亟(ながさわいちのじょう)の機転により、意図的に「聞き間違い」として立石(たていし)の地(現・杵築市山香町)5千石の分領としましたが、長澤市之亟は主君の遺命を曲げた責任を取って後に切腹をする。  こうして正保3年(1646年)、木下延由を祖として立石領が成立。日出藩と立石領は一時絶縁状態になるなど、その関係は冷え切ったものでしが、この状態は双方の代替わりを経て和睦が成立する。立石領は日出藩とともに明治維新まで存続しました。


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