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基肄きい城跡
〒841-0201 佐賀県三養基郡基山町小倉

日本書紀によると、西暦600年ごろの朝鮮半島は、西に高句麗(こうくり)、北に新羅(しらぎ)、南に百済(くだら)の三国があり、新羅は高句麗・百済と、そして高句麗は中国の唐(とう)と戦っていました。唐は新羅と連合して百済討伐の軍を起こし(660年)、百済国を滅ぼしました。百済滅亡直後から各地で百済を再興しようとする気運が高まり兵をあげ、日本に助けを求めてきました。日本の斉明(さいめい)天皇はこの求めに答えて、天智2年(663年)5千の兵を百済に送りましたが、これにたいして唐も大軍を派遣し、白村江(はくすきのえ)の地(白村江の戦い)で唐の水軍と対戦したが大敗してしまいました。
基肄城跡は、天智4年(665年)に大野城跡(福岡県)とともに、唐・新羅の侵攻に備え、大宰府防衛のため築かれた日本最古の本格的な山城で、「朝鮮式山城」と呼ばれています。

城の構造は、基山(きざん:標高約405m)とその東峰(標高327m)とを土塁と石塁で囲み、その内側の尾根上に建物を配置しています。土塁の幅は20m程度、土塁の外側は鋭く切り落とし、内側を低くした車道と呼ばれる幅15mの通路があります。土塁の途中には大宰府側に通じる北帝門と東北門跡があり、礎石も残っています。これまでに約40棟の建物が確認されており、主に武器や食糧などが蓄えられたと考えられます。現在は、「礎石群」と呼ばれる柱を据えた基礎石を見ることができます。これまでに建物に葺かれた瓦や生活容器として使われていたと考えられる土師器・須恵器などが出土しています。
城壁の長さは約4kmで、その途中には推定を含め4ヶ所の城門を備えています。南側では谷を塞ぐようにして築かれた石塁に、川の水を流すための水門があります。また、最近の調査により、同じ石塁においてこの水門のほかに、排水機能をもつ3つの通水溝があることがわかりました。
中世頃には「木山城」として再び使用されます。詳しい築城時期や築城主体は不明ですが、周囲が堀に囲まれた基山頂上にある高台や土塁を4ヶ所掘りきった「いものがんぎ」などが当時つくられたものと考えられています。

昭和12年(1937年)12月21日に国史跡に、昭和29年(1954年)3月20日には、国の特別史跡に佐賀県内で初めて指定されました。佐賀県内の特別史跡である吉野ヶ里遺跡、名護屋城跡並びに陣跡とともに、国を代表する史跡の一つとなっています。

<基山町ホームページより>



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