〒856-0834 長崎県大村市玖島1丁目34 |
大村神社の由来
藤原鎌足・藤原純友・大村歴代の領主・藩主を祭り、大村公園に鎮座する神社です。もともと文化2年(1805年)藩主大村純昌が、大村氏の祖と崇める藤原純友とその親族を祭る御霊宮を、池田山に建立したのが始まりといわれます。
その後、明治3年に大村家歴代の12柱を合祀して、常盤神社と改称しました。翌年、廃藩置県によって大村藩がなくなると、旧大村城下の士族達が発起人となり、旧領内に呼びかけて常盤神社を旧大村領民全体で祭ることにしました。しかし、池田山では参拝に不便なため、明治17年解体され荒地となっていた大村城本丸跡に移されました。この時に社名も「大村神社」と改められました。
また、この移転にあたり、勤皇の功績が大きかった7名の領主は本殿へ、それ以外の歴代の領主や藩主は本殿脇の別社に祭られました。大正4年には歴代全領主や藩主が本殿へ祭られることになり、別社はとり壊されました。大村公園の名物となっている桜は、大村神社が本丸跡に鎮座したことを祝って植えられたものです。境内には国指定天然記念物のオオムラザクラ、 県指定のクシマザクラ、それに大村藩最後の藩主大村純熙の銅像などがあります。
大村神社の歴史記念物大村桜
玖島城の本丸跡にある大村神社の社殿前両側に、国指定天然記念物「大村神社のオオムラザクラ」があります。オオムラザクラは、1967年「大村神社のオオムラザクラ」の名称で天然記念物として国に指定を受け、72年市制施行30周年の年に市花に選定されました。 特徴は、花が2段咲きで、外花と内花が1本のめしべで串ざしをしたようになっていることと、がく片と花弁の数が多いことです。がく片が普通の桜が5枚なのに対し10枚あり、花弁も少なくとも60枚、多いもので200枚にも及んでいます。花の色は、つぼみの時はえび茶で満開の時は、ピンク色となり、極めて優美で気高く、名桜中の名桜、里桜の中の逸品と言われています。
貝吹石
貝吹石は、円形の野石で上に大小ふたつの穴があり、小さな方を吹くと法螺貝の音を出します。戦国時代の天正年間、竜造寺隆信が萱瀬村を襲撃した時、当時の領主純忠の命令を受けた萱瀬村の郷士等が、砦に立てこもり、隆信と戦う時この石を合図の陣具に代用し、ついに敵を追い退けたという伝説が残っています。
さざれ石
天然記念物に指定されているこの石は国歌「君が代」に詠まれていることで広く知られており、国歌発祥の地といわれる岐阜県春日村の山中にあったものです。長い年月の中でできる「さざれ石」は、時の長さだけでなく、様々な形、大きさ、色の小石が集まって岩になるという姿から、団結、協調、平和、繁栄、絆の象徴とされています。
玖嶋稲荷神社の由来
玖嶋稲荷神社は、全国の稲荷神社の総本社、伏見稲荷大社より第16代大村藩主純伊公が、文明12年 (1480年)、大村領の守護神として分霊を受けたことに始まります。この稲荷信仰は、歴代の領主にも受け継がれ領民にも広く信仰されるようになりました。
当時15世紀のわが国は、戦国時代といわれる混乱期に当たり、大村氏も隣国有馬氏の侵攻を受け、領地を追われていた時代でもありました。当時は、戦闘に当たっての吉凶を占う守護神は不可欠の神霊であったそうです。稲荷神霊の御加護もあって、旧領に返り咲いた領主は、その信仰を家臣・領民に広め、祖先神共々、信仰の度は深まっていきました。途中、18代藩主純忠公が、キリスト教信仰に転じたことから領内の寺社共々焼き討ち等の弾圧を受けましたが、19代領主 (初代藩主) 喜前公により守護神として復活し、幕末に至るまで歴代の藩主は勿論のこと武家、農民、商人の間まで信仰の輪は広まっていきました。
明治維新後、歴代藩主を祭神とする常盤神社が、廃城となった玖島城跡に県社大村神社として移築された折、稲荷神社も同境内の北端に社殿を建立 (明治17年・1884年) 玖島稲荷神社として新たな信仰が始まりました。爾来110余年、分霊以来500有余年、大村市内には勿論のこと、旧藩時代の繋がりもあって、大村湾を隔てまた対岸の西彼杵半島からの参拝は、現在まで連綿と継続されています。