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岩門いわと城跡
〒811-1244 福岡県那珂川市山田

岩門城は、別名龍神山城・山田の城とも呼ばれ、山田、安徳、梶原の三地区にまたがる標高195.4mの城山(じょうのやま)に築かれた山城です。 海賊・藤原純友を討伐し功があった大蔵春実の孫・種光が岩門縣を賜り築城を始め、建久五年(1073) 種資の時に岩門城が完成しました。
種資四代の裔・原田種直は、平清盛の信頼を得て、平家軍の与党として活躍し治承五年(1181)には、平家の強い推挙により太宰少弐に任じられ、安徳台の館に遷り住み、博多櫛田宮と姪浜祇園社に、太刀、神田、神馬などを奉納し平家の安泰を祈願しました。 寿永二年(1183)、 平清盛没後、木曽義仲の進攻を恐れ「都落ち」された安徳天皇一行は、鎮西に下りました。この時、原田種直は別所で天皇をお迎えに出て、 安徳台の館を仮の御所としました。今は、館の跡に「安徳宮」が祀られ、また、「お迎え」という地名も伝わっています。
九州源氏方の追撃が迫り、安徳天皇は、山鹿(芦屋) 門司・屋島へと移り平家軍は一時勢力を盛り返しましたが、 一の谷や屋島の戦い、寿永四年(1185)三月二十四日 壇ノ浦で敗れ滅びました。
源範頼は、九州平家軍を追討し種直を芦屋・岩門城に破り、種直は一族の多くを失い鎌倉に幽閉され、その後に種直の旧領三千七百町歩を受けた武藤資頼が入り太宰府権少弐に任ぜられ、後に姓を職名の少弐に改めました。安徳には、平家の落人追討にまつわる「追い松」がありました。 文永十一年(1274) 文永の役〈元寇〉では資頼の孫の景資が岩門城から出撃し、九州武士団を指揮して戦い、敵の大将・劉復亨を射落としたことは有名です。
弘安四年(1281) 弘安の役〈元寇〉後、幕府の内管領・平頼綱と御家人の安達泰盛との間で同八年に霜月騒動が起り泰盛らは討伐され、九州への飛び火を恐れた幕府は、少弐景資を急襲し討ちました。しかし、九年後平頼綱は、執権北条貞時によって討たれ、泰盛、景資の名誉は回復されて、岩門城の麓に「景資の墓」と伝えられる五輪塔が祀られました。
岩門城は、少弐氏が在城しましたが、建徳二年(1371)には、今川了俊が九州探題として下向し、応永三年(1396)に、周防の大内氏を後ろ盾とした渋川満頼が九州探題となり、大内氏が岩門城を支配し、没落後は、毛利氏が進出します。 永禄十二年(1569) 岩門で大友軍と毛利軍との間で合戦が行われ以降は、大友氏が支配。 天正六年(1578) 肥前の龍造寺隆信が那珂川域に進出して大友軍との間で戦いが続き、肥前の筑紫広門も一ノ岳城に舎弟の龍造寺信國を受け入れ、大友方の鷲ヶ獄城を攻めました。 天正七年(1579) 大友宗麟は、竹田城の志賀道輝を岩門城に在城させ、龍造寺と呼応して攻める秋月種実を追討させました。 天正八年(1580)頃には、筑紫氏が岩門城に城番を置いています。 天正十四年(1586) 島津氏が進攻して現人神社が焼かれたが、豊臣秀吉の九州征伐により、岩門城は廃城となっていきます。

<那珂川町商工会><那珂川町郷土史研究会>

youtube動画-少弐景資と岩門城と岩門合戦の城山を歩く


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