〒849-0311 佐賀県小城市芦刈町芦溝807 |
曹洞宗総持寺系の寺院で、徳島盛秀の妻が先祖(龍造寺家純ほか一族)の供養のため寺を建立。
山号 鶴蔍山
宗旨・宗派 曹洞宗
創建時代 永禄2年(1559年)
開山・開基 阿福(龍造寺隆信の叔母)
徳島家・神代家の菩提寺 福田寺
鴨打氏と共に芦刈を治めた徳島盛秀を庵主として妻・
本寺は徳島氏に次いで、領主となった神代家良の菩提寺でもあり、寺内には徳島家や神代家代々の墓塔が祀られています。
徳島氏は千葉胤鎮の系統で、戦国時代まで芦刈地域を治め、後に小城城下に移り住みました。神代氏は、戦国時代三瀬一帯に勢力を持ち江戸時代は、現在の佐賀市川久保、芦刈に領地を持っていました。
なお、江藤新平の母方の浦氏や、従兄弟で共に国事に奔走した江原喜右衛門の菩提寺でも あります。
本堂に掲げられた「鶴麓山」と「福田禅寺」の木額は中林梧竹の揮毫によるものです。
<令和六年九月十三日小城市教育委員会>
【龍造寺隆信、智謀と決断、カエサルに似たり
永禄6年(1563年)、豊後の大友義鍞は小弐家を再興せんと、有馬氏、松浦党、多久上野守宗利(前多久家14代宗時の子) 多久上野守宗利(下多久城主)等、肥前の諸将に呼び掛け、その軍兵を合わせて、龍造寺を攻め滅ぼし、小弐家をたてんと企てた。有馬氏らは小城郡の芦刈(鴨打城・柳鶴の戦い)、牛津(大橋口の戦い)に攻め込み、緒戦は劣勢の場面もあったが、同年7月、龍造寺隆信は千葉胤連と同盟を結んでこの敗勢を盛り返すべく弟たちや鍋島信房等を従え自ら出馬、丹坂(現小城町三里)に陣を構えた。その攻防は牛津川を境に両軍入り乱れて相戦い、初戦は有馬勢が切り勝ち西郷(三里西川宿)まで攻め入ったが、龍造寺勢も激しく戦い、ついには有馬勢を丹坂峠を越えて右原へ追い詰め敗走させた。この戦いで有馬氏に味方した土着の武士のうち、西の原の田代刑部少輔は討死、羽佐間の田中土佐守は羽佐間へ引いた。かくして、龍造寺勢は勢を駆って別府を通り梶峰城を攻め落とした。
その後、龍造寺隆信は梶峰城に龍造寺長信を置き、南に有馬・平井・後藤、西に伊万里・山代・大河野、北に波多・松浦・鶴田氏ら大敵に囲まれる中でこれを守った。
【福田寺ハ鴨打陸奥守胤忠ノ陣城址ニシテ徳島盛秀奪取放逐セリ 鴨打陣城】
戦国時代、鴨打氏は坊主原(竜宮お宮安養寺塚・真中寺・福寿庵・福田寺)
に陣城おいたが、千葉家の家臣である徳島盛秀が攻め鴨打家は退去した。
【肥前七城 神代御領 芦刈邑 芦ヶ里城】
小路部落の南部、字神代という地域がある。この一帯約3町5反余(約3.5 ヘクタール)は、佐賀鍋島藩の親類神代家の「御館跡」であるといわれる。神代氏は元来川久保(佐賀市久保泉)一帯の土地を支配していたが、慶長年間と思われるが芦刈へ移住し、物成4500石となった。このあと慶長16 年(1611)三部上地があり物成3150石となっている。神代氏の芦刈領有は、『御領中郡村附」によると、芦刈村、練ヶ里、浜中ヶ里村(立野・高道・三条)となっている。福田寺は、徳島氏についで神代の菩提寺となっている。
【肥前十七城 千葉 徳島一族 陣の森城】
小城市の佐賀平野に位置する。築城年代は不明だが、1979年の発掘調査では鎌倉時代や16世紀の遺物が多数出土した。九州千葉氏の一族である徳島氏が代々城主を務めた。徳島氏は後に有馬氏に属したが、江戸時代には小城藩士となった。
福田寺発行朱印6種