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潮見神社しおみじんじゃ

〒843-0014 佐賀県武雄市橘町大字永島17343


御祭神
 ●上宮
  伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなぎのみこと) 橘諸兄公(たちばなのもろえこう)
 ●中宮
  神功皇后(じんぐうこうごう) 応神天皇(おうじんてんのう) 武内宿禰公(たけうちのすくねこう) 橘 奈良麿公(たちばなのならまろこう) 橘公業公(たちばなのきんなりこう)
 ●下宮
   渋江宮(橘朝臣渋江公村公)たちばなの あそんしぶえきんむら 中村宮(橘 朝臣中村公光公)なかむらぐう たちばなのあそんなかむらきみみつ
  牛島宮(橘朝臣牛島公茂公)うしじまぐう たちばなのあ そんうしじまきみしげ


【潮見神社の歴史と成り立ち】
古くはこの一帯が「島見郷(しまみごう)」と呼ばれる有明海に面した小島であり、潮の流れ(潮見)を知るための重要な場所であったことから「潮見神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。
鎌倉時代の1237年(嘉禎3年)、この地(長島荘)の地頭として赴任してきた橘公業(たちばなのきみなり)公が、橘一族の氏神として信仰を深めました。
橘公業公は、上宮に橘氏の始祖である橘諸兄(たちばなのもろえ)公を、中宮にその子である橘奈良麿公を祀りました。その後、氏族が分かれる中で下宮も築かれ、現在の上宮・中宮・下宮という構成になりました。


【橘氏(渋江氏)と河童の不思議な縁】
鎌倉時代の嘉禎3年(1237年)、鎌倉より長島荘の地頭として下向してきた橘公業(たちばなのきみなり)公。この橘氏が後に渋江氏、中村氏、牛島氏の3氏に分かれることになりますが、潮見神社の河童伝説は、この橘氏(特に後の渋江氏)と河童たちの長い関係から始まります
実は、渋江氏の祖先が神社造営の際に使役した「人形」を川に捨てたところ、それが河童(ヒョウスベとも呼ばれる)になったという伝説があり、以来、河童は橘氏の眷属(家臣)となったと伝えられています。公業公が潮見の地へ移り住んだ折、その眷属であった河童たちも、公に従って近くの潮見川に住み着くようになりました。
いたずら好きの眷属と村人の困惑 : 当初は橘氏の家来としておとなしくしていた河童たちでしたが、元気が良すぎて、次第に村の子どもたちに相撲を挑んだり、水辺で悪さをしたりして人々を困らせるようになりました。村人たちは、橘氏の眷属である河童たちに強く言うこともできず、途方に暮れていました。
渋江氏(宮司)の決断と「誓文石」の約束 : 村人の苦しみを知った渋江氏(または潮見神社の宮司)は、代々河童を統帥する家柄として、河童たちを諭すことを決意しました。 渋江氏は、潮見神社の側、潮見川の堤防沿いにある大きな石を指差して、河童たちにこう迫りました。
「もし、この石に花が咲けば、人を獲(と)っても良い。だが、咲かない限りは決して人に危害を加えてはならない」
石に花が咲くなど、あり得ないことです。河童たちはこの無理難題に驚きましたが、渋江氏の威厳に押され、その約束(誓文)を受け入れました。この約束が交わされたとされる大きな石は、現在も「かっぱの誓文石」として潮見川沿いに残されています。

【現在に続く河童とのつながり】
この誓約以来、潮見神社周辺では水難事故が起きていないと伝えられており、河童たちは水難除けの守り神として信仰されるようになりました。
潮見神社の宮司・毛利家には水難除け・河童除けのための呪文が語り継がれています。 「兵主部よ 約束せしは忘るなよ 川立つをのこ 跡はすがわら」 (河童たちよ、約束をわすれてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ。)
※水木しげる先生は潮見神社を調査し、「ひょうすべ」を日本の妖怪として妖怪図鑑に描いています。

  • 御朱印



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