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| 〒819-1155 福岡県糸島市川付787 |
宇美八幡宮
●祭神
上宮:仲哀天皇
本宮:応神天皇 神功皇后 玉依姫尊 瓊瓊杵尊 気比大神 菅原大神
長嶽山(ながたけやま)の山頂にある神社で、長野八幡宮とも呼ばれています。奈良・平安時代は大きな神社で、7日間の祭礼が行われていました。明治維新の際に長野、川付、飯原小蔵(白糸)、四ヶ村(長野庄)の氏神社となり、明治5(1872)年に郷社、大正12(1923)年に県社に指定されました。
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【宇美八幡宮 縁起、略記】
幣帛料供進指定社、前原市大字川付七八七、長嶽山上に鎮座、當社は別名長野八幡宮とも稱す。上宮並びに本宮がある。共に長嶽山上に鎮座す。社殿、幣殿、拝殿、参篭所、《神輿》庫、社務所、宝蔵備わり、老樹がうっそうと茂り真に幽邃の神域である。上宮は周囲四十五間の丸塚型山陵であって、山頂に石祠がある。上宮の祭神は、仲哀天皇と言い伝える。 当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、大臣、武内宿祢に命じて香椎の宮に安置していた先帝の御棺を当山に飲めて陵を築かせたとあり、蓋し三韓渡航の間の仲哀天皇御殯斂の地であったのだろうか?
本宮は、祭神、応神天皇、神功皇后、玉依姫尊、瓊々杵尊、気比大神、菅原大神であって、 気比大神は、神功皇后三韓渡航の時、船上に神様が現われて、言われることに「吾は、皇后の船と国土を守ります。」と、そこで皇后は、お帰りになって、長嶽山でお礼のお祭りを されました。その後百二十一年を経て、仁徳天皇の治世十年に、《平群木菟宿祢》の子博公 神主として此の霊蹟に神社を建て気比大神を祭らせた。是が本宮の起源である(当社縁 起に依る)。気比大神は、越前国官幣大社気比神宮の祭神である。
降って四十三代称徳天皇の神護景雲元年、社務(宮司) 公実という者、八幡宮、聖母宮、宝満宮の三社を勧請する。その後八幡宮の威徳霊験あらたかで、当時の人達の崇敬が多遂に社名も八幡宮と言うようになった。
奈良、平安時代は大きな神社であって、二月初卯日、大神楽、九月十九日より七日間の祭 禮があり、神輿三台を連ねて深江子負原海岸まで神幸し、相撲、流鏑馬等の奉納があり、 筑前、肥前のオリンピックめいたものだったらしい。
中幕の頃怡土郡中津領十二ケ村の総社として毎年風止め晴雨疫病の祈願祭があり、藩の役 人が出張して来て、祭の監とくをし、社殿の造営の時は藩費を出して補助をした。今の社殿(神殿)は、宝歴九年、奥平大膳大夫昌邦が大檀那として建立したものです。
明治維新の時、長野川付、飯原小蔵(白糸) 四ヶ村、昔の長野庄の氏神社となり、明治五年郷社に大正四年幣帛供進指定社に、大正十二年に県社に指定される。戦時中は境内神木に寄生する「シーボルト、コギセル」を「がいせん貝」と銘うちて、出征兵士の守護として頂かせた事もある。当時神木として三本の樫の木が「上段、中段、下段」と植生していたが、現在、下段の一本が落雷と台風により枯損木となる。「樫の木」で珍しい大木といわ れている。神社創建年代よりの遺物かと?
宝物には、仁寿二年(一五五一年、八五一年)の縁起を始め、古文書、致雲斎、一倫筆 祭神の御神影がある。
境内は三千百余坪、長野川の清流に臨み、百余の石磴長く連なり参詣者も襟を正す神域で ある。
境内社 金刀比羅神社、風神神社、生目神社、宮地嶽神社、両神神社、和多積神社、猿田彦神社
上宮 本宮より山道を二百米南方へ