GREENFIELD-CLUB.JP


男女神社なんにょじんじゃ
〒840-0213 佐賀県佐賀市大和町大字久留間5109今山

男女神社
 ●男女大明神
  古 事 記:伊耶那岐命 伊耶那美命(イザナギノミコト イザナミノミコト)
  日本書紀:伊奘諾尊  伊奘冉尊 (イザナギノミコト イザナミノミコト)
 ●住吉大明神
  古 事 記:底筒之男神 中筒之男神 上筒之男神(ソコ・ナカ・ウワ・ツツノヲノミコト)
  日本書紀:底筒男命  中筒男命  表筒男命 (ソコ・ナカ・ウワ・ツツノヲノミコト)


男女神社の祭神はいざなぎ・いざなみの男女二神であるところから男女神社といわれている。  
元亀元年(1570)今山陣の兵火のため宝物、古文書も焼失しその創建年月は不明であるが、少くとも今より650年以前に創建された。
700年の昔、建治年間(1275~1278)正空上人が光明寺(今は廃寺)を男女神社の南東に建て、子院末寺も建ち並んでこの一帯は仏教繁栄の霊地であった。このころは神仏習合(混淆)の時代で、光明寺の和尚が代々にわたって男女神社の座主として管理し、神座を勤めていた。元亀元年今山の陣の兵火で焼かれた後に再建され、棟銘に「奉再建肥前国佐賀郡今山村鎮守男女明神宝殿一宇大檀那従四位侍従鍋島信州大守藤原勝茂朝臣紀州大守藤原元茂朝臣座主光明寺宮司北野坊並堯仁坊金剛寺常善坊金蔵坊金蓮院氏子当村中並江隈野今古賀下村同心大工王孫谷口市郎兵ヱ義重小工若干人 干時承応三年午天仲冬上旬吉祥日」 とあり、承応3年(1654)、佐賀初代藩主鍋島勝茂と小城藩祖鍋島元茂の出資で再建したことが記されている。現在も大字久留間の氏子により春秋の例祭を行っている。


【今山の合戦と男女神社】
今山の合戦(陣)とは、戦国時代、豊後の国(大分県)の大名大友宗麟(そうりん)と、肥前の国(佐賀県)の大名龍造寺隆信(たかのぶ)との合戦で、龍造寺の家老の鍋島直茂(なおしげ)侯(後の佐賀藩祖)が、この今山の地(現在の佐賀市大和町大字久留間字今山)で、大友8万(6万~10万の説あり)の大軍に僅か7百(5百~7百の説あり)の兵で奇襲し、総大将大友親貞(ちかさだ:宗麟の弟、又は甥)を討ち取った戦いである。
当時この今山は仏教繁栄の霊地として栄え、男女神社は、東の谷に講堂棟、西の谷に楼門を持つ大社であり、光明寺(男女神社南東約八〇〇メートルに位置し、今は廃寺)の座主(最高位の僧侶)が、男女神社の神座を勤めていた。しかし、この戦いの日に戦火に焼かれ、宝物・古文書等は全て焼失する。
元亀元年(1570)大友8万の大軍に包囲された佐賀城は、5千の兵力しか無く、軍評定で篭城や降伏論が飛び交う中、鍋島直茂は奇襲(夜襲)を進言、無謀だと否定的だった龍造寺隆信も、母の慶誾尼(けいぎんに)の激で奇襲を決行する事となる。
大友軍本陣は男女神社東の赤坂山中腹に布陣し、8月20日(陽暦9月19日)を佐賀城総攻撃と定め、その前日に勝利の前祝いの酒宴を開いた。
酒宴の情報を知った鍋島直茂は、午後6時頃、佐賀城を僅か17騎で出発したが、近隣の武将達も次々に駆け付け、今山に着く頃には7百余りの兵になり、地元の山伏達の協力を得、男女神社の西側から谷伝いに山を登り、密かに大友軍の背後、赤坂山裏側(ここには2百~3百の兵を布陣)に潜伏する。
明朝七時頃、男女神社北東の大松(鐘かけ松:昭和三〇年頃迄存在、鐘は現在鍋島の新庄八幡宮から運んだ伝えられる)に掛けた鐘の合図で、「寝返った者が出た」と虚報を流し、一斉に奇襲を敢行、武具も付けず油断していた大友勢は大混乱に陥り、同士討ちを始めた軍中で、総大将親貞主従三人は何とか混乱を脱したが、山伝いに逃れるところを、首を挙げらてしまう。総大将を討たれた大友軍は一瞬にして烏合の衆と化し、2千余の兵を討たれて潰走、奇襲は大成功に終わった。
その時、鍋島勢は各々鬼面を冠り、鐘、太鼓を打ち鳴らして奇襲をかけたと伝えられ、佐賀の郷土芸能の面浮流として現在も残っている。
男女神社は、承応三年(1654)佐賀初代藩主鍋島勝茂侯・小城藩祖鍋島元茂侯の出資で再建、また鍋島元茂は、古戦場跡に正勝寺(字横馬場に現存)を建立する。
大正15年(1926)佐賀で陸軍特別大演習が行われ、御前講和で今山の合戦の講和がなされ、昭和6年(1931)陸軍大学参謀演習にて、秩父宮雍仁親王殿下が、今山の合戦ご研究のためこの地に立たれ、前方の小円古墳の上に記念碑が建てられている。

  • 御朱印



ページのトップへ戻る