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猫尾城ねこおじょう

〒834-1203 福岡県八女市黒木町北木屋


猫尾城跡は、福岡県八女郡黒木町の矢部川と笠原川が合流する付近にあり、戦略上、奥八女の要衝を占める典型的な中世の山城です。文政8(1625)年、久留米藩士、村上量敏は山土産に「この山、尾短くて、鉢を伏せたるがごとし」と著しています。 資料によると、仁安2(1167)年、徳大寺家の請いにより大蔵大輔源助能が瀬高荘を管理するため、大隅国根占(現鹿児島県肝属郡錦江町)から筑後国上妻郡黒木郷へ移り移城した、とする説が有力です。これより天正12(1584)年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると、それまで龍造寺氏の傘下にあった黒木氏に対し、大友氏が失地回復のために数万の軍勢で侵攻を開始しました。この時の大友軍を率いたのは、九州屈指の猛将として知られる立花道雪と高橋紹運です。 当時の城主・黒木家永は、険しい山城の地形を活かして約1ヶ月に及ぶ壮絶な籠城戦を展開しましたが、大友軍の苛烈な攻撃と兵糧攻めの前に力尽き、遂に落城。家永は自刃し、名族・黒木氏は滅亡の道を辿りました。
豊後大友氏の攻略により落城するまで417年間、黒木氏の居城として栄えました。 本丸跡は標高240m、南北56mを測り、周囲を石積み(火成片岩)で巡らし、武者走り、馬場を備え天然の要害をなしています。本丸跡の東一帯は、中央に城主の居館跡、南に政所跡、北側に艮櫓跡、南端に巽櫓跡があり、西一帯は、正面入口に大手門跡(推定)、その北側に酉櫓跡があります。二の丸跡は、馬場をはさみ本丸跡の西下に位置し、約30m四方の規模をもち、山麓に通じる西側斜面にかけて縦状畝堀(土塁)が40m以上確認されています。また、山麓一帯に外郭と堀をもつ居館を構え「陣の内」と称し、平時にはここを拠点に敵の侵攻に備えました。 三の丸跡は空堀をはさみ本丸跡の東下に位置します。 これら中世山城の特徴をよく残す史跡として、昭和58(1983)年、県の指定を受けました。


黒木氏は、守護大名・大友氏(豊後)の領国支配に与し、有力な城主の地位にありました。 猫尾城(黒木城)を本城として、喬華城(木屋氏)高牟礼城(椿原氏)の支城には一族をおき、周囲の兎城(下名)、内の城(田本)、でん城(土窪・浦の迫)、向城(鹿子生)、地下城(鹿子尾)には狼煙守を配し、監視と情報伝達による領内の治安維持に努めました。 二の丸西側の麓付近は、陣の内と呼ばれ、里城(平時、城主や重臣らの居住地)として、環濠を巡らせた武家屋敷(城館)が所在したと推定されています。 戦時には、城下に住まう農民(兵士)に号令が下り、太鼓や鐘の合図で山上に登り、敵方の進路をうかがいながら陣を整えました。また城下は戦場となることから、兵火による被害を少なくするため、村方の集落は疎らに形成されました。 猫尾城の落城後、近世初頭にかけて、筑後国主・田中吉正や久留米藩主・有馬氏らにより新たな町立てが行われ、豊後別路の整備に合わせて下町から上町界隈では、林産物の集散地として町屋(商家)が建ち並び、近代まで八女地方の第二の商都として賑わいをみせました。



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