〒811-1236 福岡県那珂川市南面里
福岡県那珂川市南面里(なめり)に所在する鷲ヶ岳城(わしがたけじょう)跡は、戦国時代中期から後期にかけて、九州北部における覇権争いの最前線として機能した中世山城の遺構である。標高454.3メートル(一部資料では454.4メートル)、麓からの比高約350メートルの鷲ヶ岳山頂に築城されており、その険峻な地形を最大限に活用した要害でした。
戦国期の筑前国(現在の福岡県西部)は、豊後国を本拠とする大友氏、肥前国の龍造寺氏、そして後に薩摩国から北上する島津氏が覇権を争う極めて流動的な緩衝地帯であり、大友氏は、国際貿易港である博多の経済的権益を確保し、筑前国内の国人領主(在地勢力)を統制するため、大友筑前五城を整備した。鷲ヶ岳城は、立花山城戸次道雪の拠点。筑前防衛の総司令部。北部・東部からの侵攻阻止および博多の直接統制。、宝満山城高橋紹運が守る。太宰府支配の中核。筑前南部および東部国境からの侵攻に対する広域防衛。、荒平城(安楽平城)早良・油山方面の防衛。肥前国境(三瀬峠方面)からの龍造寺軍監視。、柑子岳城糸島・唐津方面の防衛。水軍の掌握および海上交通路の監視。とともにこの五城の一角を担い、特に筑前南部の山間部から侵攻する敵対勢力に対する防波堤としての役割を付与されていました。
鷲ヶ岳城の築城年代については、文献により二つの有力な説が存在します。一つは、大友方による筑紫・秋月方攻略戦の一環として永禄3年(1560年)に築城されたとする説で、もう一つは、それより10年早い天文19年(1550年)に築城されたとする説があります。
この築城を主導した大鶴宗雲(大津留宗周、号は浄慶)の足跡を辿ると、天文19年説を裏付ける背景が見えてくる。宗雲は、小田部鎮隆(松浦隼人佐)小田部鎮隆(こたべ しげたか)
戦国時代に筑前国(現在の福岡県福岡市早良区)の安楽平城(あらひらじょう・荒平城)の城督を務めた武将です。大内氏に仕えた後、大友氏の筑前進出に伴って大友氏に従属し、同地域の要衝を守りました。の子として生まれ、後に大鶴氏(大津留氏)を継承した人物である。彼は大友義鑑や大友宗麟に仕えた後、京都に約3年間滞在し、伊勢氏のもとで礼儀作法や猿楽、刀剣鑑識などの高度な文化と教養を修得した。天文19年(1550年)に帰国したのち、那珂郡内の岩戸や河内に約300町の領地を受領し、この時に鷲ヶ岳城を構築したと記録されている。すなわち、鷲ヶ岳城は単なる急造の野戦陣地ではなく、京都で最新の築城技術や文化的素養を身につけていた。領国支配の恒久的な拠点として計画的に整備された城郭であったと思われます。
大友氏の勢力が衰退し始めた天正7年(1579年)10月、龍造寺氏の将・大田兵衛と筑紫広門の連合軍が鷲ヶ岳城へ侵攻し、城主の大鶴宗雲は城を堅守して籠城し、高橋紹運や立花道雪からの救援部隊の活躍もあって、この危機を乗り越え敵軍を撃退しました。 そののち、周辺の支城が落城して孤立を深めるなか、天正9年(1581年)に再び筑紫広門らによる大軍の侵攻を受け、昼夜を問わない猛攻の末に防衛の限界を迎え、鷲ヶ岳城はついに落城(開城)しました。