〒819-0165 福岡県福岡市西区今津
豊後国を本拠地とする大友氏が筑前国志摩郡(現在の福岡県糸島半島東部およびその周辺地域)へと関与を深める端緒は、鎌倉時代中期の蒙古襲来(元寇)にまで遡る 。弘安9年(1286年)、大友頼泰鎌倉時代中期の武将・御家人。大友氏3代当主 は弘安の役における軍功の恩賞として、鎌倉幕府より「怡土庄志摩方三百町惣地頭職」を与えられた 。しかし、大友氏による志摩郡の領有化は決して平坦なものではなかった 。現地に入部した大友氏は、その後の約20年間にわたり、現地を実質的に経営していた地着の名主(小地頭)らによる激しい抵抗に直面し、当初は円滑な領国支配を確立できなかったとされる 。
この停滞状況が打破されたのは南北朝時代に入ってからである 。足利尊氏より、怡土庄のうち北条氏一門の大仏維貞大仏維貞 おさらぎ-これさだ1286-1327 鎌倉時代の武将。 弘安(こうあん)9年生まれ。大仏(北条)宗宣(むねのぶ)の子。母は北条時茂の娘。評定衆,引付頭人(とうにん),陸奥守(むつのかみ)などをへて,正和(しょうわ)4年六波羅(ろくはら)探題南方。元亨(げんこう)4年に辞任して鎌倉へかえり,評定衆に再任され,嘉暦(かりゃく)元年連署となった。歌が「玉葉和歌集」以下の勅撰集におさめられている。嘉暦2年9月7日死去。42歳。初名は貞宗。 が有していた旧領を付与されたことで、大友氏は同地における支配権益をさらに拡張することに成功した 。室町時代から戦国時代にかけて、筑前国の守護職は少弐氏や大内氏といった有力守護大名の間で激しく争奪されたが、志摩郡はこれら守護の直接支配に服することなく、大友氏が排他的かつ独立的な統治体制を維持し続けた領域であった 。
大友氏は志摩郡を領有するにあたり、統治の実務を担う機関として「志摩郡代」を設置した 。志摩郡代の任務は単なる郡内の訴訟処理や所領授受、有力寺社の保護・統制にとどまらず、中世北部九州における最大の交易港である「博多」の支配に直接関与する極めて重要なものであった 。
550年代以前において、博多津に常駐する「博多代官」は志摩郡代の指揮下に置かれていた 。志摩郡代は博多津内における諸係争の裁判権を行使し、朝鮮貿易などの対外交易の実務を統制するとともに、臨済宗を中心とする有力寺社の再興など、多面的な職務を遂行した 。とりわけ、戦国期に柑子岳城代(城督)を務めた大友氏家臣の臼杵鑑続臼杵 鑑続(うすき あきつぐ(正式には「鑑[賡]」))は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。筑前国柑子岳城主。臼杵氏は豊後国大友氏の庶流戸次氏の流れを汲み、大友氏の一族に当たる。鑑続の生年は明応の後半から文亀の年と推定される。父・臼杵長景の死後、家督を継ぎ加判衆として大友義鑑・義鎮(宗麟)の二代にわたって仕えた。主に外交面で活躍し、たびたび室町幕府への使者となり、周防国・長門国守護の大内氏との関係を修復するための和睦交渉や、実子の無い大内義隆に義鑑の子・晴英(大内義長)を猶子として養子縁組することや、義鎮と一色義清の娘との婚礼交渉などで多大な功績を挙げたという。その他筑前の柑子岳城主の時には大友の貿易を仕切っていたと考えられる。 は、単なる一城の守備責任者にとどまらず、大友氏の外交交渉の中枢に位置し、かつ博多を舞台とする対外貿易を差配する司令官としての役割を担っていたと考えられている 。このことは、志摩郡という地域が、大友氏にとって単なる一領地を超えた「巨大な経済的・外交的窓口」であったことを示している。
戦国時代が本格化すると、領域支配を物理的に維持・補強するための軍指示向の拠点の構築が急務となった 。大友氏は福岡市西区草場と今津の境界に位置する標高254.5mの柑子岳に「柑子岳城(別名:草場城)」を築き、志摩郡代がその「城督(城代)」を兼ねる支配構造を確立した 。
大友氏は博多湾を中心とする筑前国支配を構築するにあたり、地理的な配置を極めて重視した。博多を扇の要に見立て、東部には「香椎郷・立花城」を配し、西部には「志摩郡・柑子岳城」を配することで、博多湾を東西から挟撃・防衛する「博多の両翼」とも称すべき軍事防衛線を形成したのである 。弘治3年(1557年)に大内氏が滅亡すると、大友氏の支配権は筑前国全域に浸透し、柑子岳城はその西方極点としての機能を強固なものとしていった 。
柑子岳城の正確な築城年代は確定されていないが、天文年間(1532年〜1555年)初期には既に拠点が形成されていたとされる 。一説には、天文元年(1532年)に筑前への関与を強めていた周防の大内氏が柑子岳の城を占拠し、初期的段階の城普請(築城工事)を行ったと伝えられている 。しかし天文7年(1538年)、大友氏がこれを攻撃して奪取し、志摩郡一帯を勢力下に収めて以降、本城は大友氏の支配拠点として本格的に稼働し始めた 。
その後、永禄年間(1558年〜1570年)には大友宗麟の手によって大規模な改築が行われ、一族の臼杵新助親連(あるいは鎮続とも伝わる)が城督として入城した 。この時期以降、志摩郡の隣接地域である怡土郡を本拠とする高祖山城主・原田氏との間で激しい武力衝突が繰り返されるようになる 。永禄11年(1568年)、守備責任者である臼杵親連(鎮続)が筑後・筑前方面への出陣(宝満山城の高橋鑑種攻撃)のため城を留守にした隙を突かれ、高祖山城主・原田隆種(了栄)原田 隆種(はらだ たかたね)は、戦国時代の武将、大名。原田氏(大蔵氏嫡流)第76代当主。筑前国高祖山城城主。原田興種の子。正室は大内義隆(あるいは大内義興)の娘であり、主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。子に種門、種吉[9]、繁種、親種などがいる。 の急襲によって一時的に落城するものの、急遽引き返した親連が激戦の末に城を奪還している 。元亀2年(1571年)に親連が豊後へと帰任すると、後任として臼杵進士兵衛鎮氏が着任した 。しかし元亀3年(1572年)、鎮氏は原田氏との間で発生した「池田川原合戦」池田川原合戦(いけだがわらがっせん)は、元亀3年(1572年)正月、現在の福岡県糸島市一帯(怡土郡・志摩郡)を舞台に発生した戦国時代の激しい地域紛争です 。 において敗北を喫し自刃に追い込まれ、城代は前述の外交実務に秀でた臼杵鑑続へと引き継がれることとなった 。
大友氏による志摩郡支配の終焉は、天正6年(1578年)末に日向国で発生した「耳川の戦い」における大敗を契機とする 。大友氏の軍事的権威が失墜したことにより、領国内の国人勢力が一斉に離反・蜂起し、筑前国においても反大友の機運が最高潮に達した 。
翌天正7年(1579年)正月、怡土郡の原田了栄は好機と捉え、柑子岳城への本格的な軍事侵攻を開始した 。当時の柑子岳城督であった木付鑑実は、志摩郡内の将士を率いて本城に籠城し、原田軍の執拗な猛攻に抵抗した 。同年8月、東の立花城に駐屯していた大友方の名将・高橋紹運や戸次道雪らの軍勢が、海上などを経由して柑子岳城へ兵糧および救援物資を送り込むための支援部隊を派遣した(生松原合戦など) 。しかし、大友側の救援作戦はことごとく失敗に終わり、制海権および陸路の補給線を絶たれた柑子岳城の命運は尽きることとなった 。天正7年9月、木付鑑実は城を放棄して下城し、東部の立花城へと敗走、これにより柑子岳城は事実上陥落した 。
柑子岳城の陥落は、鎌倉時代から300年近くにわたり継続した大友氏による志摩郡排他的統治の終焉を意味した 。これ以降、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州平定を成し遂げるまでの間、志摩郡は原田氏の支配下に置かれることとなる 。
城郭データにおける廃城年については、天正7年(1579年)の落城時とする見解と、豊臣秀吉による国分・領地替えが行われた天正14年(1586年)〜天正15年(1587年)とする見解が存在する 。原田氏の占有下においても一時的に管理された可能性はあるものの、軍事的な主機能を喪失した後は段階的に放棄され、やがて歴史の表舞台から姿を消したと考えられている
池田川原(いけだかわら)の合戦(元亀3年(1572年)正月)
当時の筑前国は、戦国大名・大友氏の勢力圏にありました。大友氏の一族である臼杵氏は志摩郡の柑子岳(こうじたけ)城に入り、怡土(いと)郡を拠点とする原田氏としばしば対立関係にありました。
元亀3年(1572年)正月、今津の毘沙門堂への参詣を終えて帰路についていた原田了栄(隆種)の一行を、臼杵進士兵衛鎮氏が伏兵を用いて急襲しました。この急襲に失敗すると、怒った原田方は出撃し、怡土郡と志摩郡の境界付近である池田川(現在の瑞梅寺川)の河原で数千人規模の合戦へと発展しました。
原田隆種・親種父子の軍勢の前に臼杵勢は惨敗を喫し、大将の臼杵鎮氏が自刃して果てました。敗れた臼杵方の戦死者だけでも260名を超えたと記録されています。