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柳川やながわ城跡
〒832-0061 福岡県柳川市本城町130

  • 柳川城御城印

  • 柳川城御城印

御城印2種

柳川城は戦国時代には難攻不落の名城として知られていました。 俗に「柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子」と言われ、柳川城を落とすのは三年、肥後(熊本城)は三月、肥前(佐賀城)・久留米城は朝飯前だということのようです。

戦国時代に柳川を治めていた蒲池治久の孫である蒲池鑑盛によって蒲池城(柳川市西蒲池)の支城として築いたとされ、その年代などはっきりしたことは分からないようです。
蒲池鑑盛(宗雪)は、大友義鎮(大友宗麟)のもとで勢力を増し、天正六年、日向国高城・耳川の合戦で大友氏が島津氏に大敗すると(蒲池鑑盛はこの戦いで戦死)、筑後の領主たちも動揺し、これを機に肥前の龍造寺氏の勢力が筑後にまでのびてきます。
耳川の合戦で戦死した蒲池鑑盛の跡を継いだ息子の蒲池鎮並は、大友氏を離れて龍造寺氏に仕え戦乱を生き延びてきたが、翌年には龍造寺氏に叛き大友氏へ通じます。「田尻輝種田尻氏由緒書出」(田尻家文書)には「蒲池鎮並逆心に依り、天正八年二月十三日、佐賀従り御勢を向けられ、柳川籠城、三百日程相支え申され候えども、色々御知略を以って、御味方に御引付成られ候」と、離反の疑いをかけられ天正8年(1580)蒲池鎮並は龍造寺軍に城を包囲されたが、300日間の攻防に耐え、落城しなかった。と記されている。結局、和睦としたが、翌年の天正9年に佐賀に招き出された蒲池鎮並は、待ち伏ふせていた龍造寺の軍勢に殺害され、同時に柳川城も攻め落されて柳川の蒲池氏(下蒲池氏)は滅亡。
柳川城は龍造寺隆信の家臣の鍋島信昌が柳川城に入った。
天正12年(1584)に龍造寺隆信が肥前国嶋原の沖田畷の戦いで戦死したことから、鍋島信昌が当主・龍造寺政家を補佐する為に、柳川城から佐賀城へ移り柳川城へは龍造寺家晴が南関から入った。
このころ大友宗麟は筑後での勢力を回復しようと、重臣の戸次道雪・高橋招運らに龍造寺家晴の守る柳川城を攻城するも堅固城のために、攻略を断念。


天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定。島津軍が立花山城を攻略の際、その時の功により、立花宗茂が筑後柳川(山門・三潴・下妻・三池の4郡)13万2千200石を賜り、養父道雪が攻めあぐねた柳川城の城主となる。
立花宗茂は家臣に指示し、文禄5年頃から、天守閣・広間・書院・二ノ丸欄干橋等、柳川城の本格的な改修や建造が開始されたと思われる。
その後、立花宗茂は関が原の戦いで西軍につき敗北し、領地没収・城明渡しとなる。戦友の加藤清正に説得され慶長5年(1600)に城を明渡すことにより宗茂の柳川城改修は頓挫しました。城は清正の家臣の加藤美作が城番となる。浪人となった宗茂は上京し、のちに家康に奥州棚倉に5千石を賜たまわる。

慶長6年(1601)三河10万石の岡崎藩主の田中吉政(1548~1609年)は関ヶ原の戦で石田三成を捕らえ、その功績により、岡崎10万石から筑後・柳川32万5千石に加増され藩主として入国し、柳川城を筑後藩の本城とした。吉政は築城学に精通し、積極的な城郭整備に着手する。
田中吉政が慶長14年(1609)2月18日江戸参勤のとき、京都伏見の旅亭において卒去。.享年62歳。京都黒谷金戒光寺に葬られた。2代目に4男忠政が藩主となったが、元和6(1620)年8月7日に卒去し、世継ぎの子供がいない理由で家が断絶し城を明渡した。僅わずか19年間の田中藩でした。

立花宗茂は大阪の陣では徳川秀忠の参謀を務め手柄を立て、元和6年(1620)奥州棚倉より旧領地に再封され、筑後柳川12万石の城主となる。幕末の13代藩主の立花鑑寛まで立花藩は246年間続きました。
明治5年(1872)1月18日原因不明(廃藩の混乱を鎮める計画的放火ともある)の火災によって柳川城は焼失。
現在は本丸と周りの内堀が柳城中学校に、二の丸と周りの内堀が柳川高校の校地となり、天守跡の高台が市指定史跡となっています。

柳川御花発行御城印6種



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