〒863-2507 熊本県天草郡苓北町富岡2240 |
御城印2種【富岡城】
中世の天草を支配したのは、志岐・天草・上津浦・大矢野・栖本の天草五人衆でした。苓北を根拠地としたのが、志岐氏で、従来、富岡城が築造されたのは近世になってからというのが定説でしたが、中世の城は櫓を建てただけの小規模な山城で、天草だけでも五十程もあり、そのことも含め、すでに五百年前に富岡城はあったと推測されています。
肥後国衆一揆が終わり、佐々成政に代わって肥後南藩の領主となった小西行長は伊知地文太夫を遣わして天草を攻め、苓北の志岐氏は富岡城で応戦し、伊知地文太夫は討死。記録に袋の津山とあることから、そのときも今の富岡城で戦ったものと考えられる。
富岡城は、関ヶ原の戦い(1600)の後、慶長6年(1601年)に天草の領主となった、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602年)頃から築かれた。中世からの城があった場所に新しく城を築き、次なる城として近世富岡城と表現。石垣のある城郭で、熊本城・八代城・人吉城は近世城にあたり、その築城技術は加藤清正や寺沢広高らが朝鮮出兵の際に朝鮮の城郭から学んだものと思われ、鉄砲という近代兵器に備えるための要塞でした。 寺沢広高が建てた富岡城の規模は本丸東西二十間、南北十二間、二の丸東西十一間、南北四三間の偉容を誇っていたといわれ、古城図や城址の実測調査でも大体裏づけられているようです。
江戸時代にあって、幕府を揺るがせたのは島原の乱。一揆軍の総大将となった天草四郎は、小西浪人・益田甚兵衛の子で、零名をフランシスコと称し、幼少のころから種々の奇跡を行い、天童と呼ばれました。天草・島原の乱は、天草を支配した寺沢氏と島原の松倉氏による圧制とキリシタン弾圧がその原因と言われていますが、島原はともかく天草には少し違う事情がありました。幕府のキリシタン禁教令により、キリシタンの弾圧が激しくなり、1630年頃、天草の人々はほとんど転宗、棄教していたが、数年の後、天変地異が起こり、日本国中が飢饉に陥る。天草四郎をはじめ天草の人々は、キリシタンを棄教したことに対する天災が起こった。天が我々を見放して、天罰を下したと考えるようになり、天草の各地で大がかりな復興運動を起こします。この復宗運動が天草・島原の乱の要因と考えられます。
寛永14年(1637)10月、島原の一揆に呼応して天草の大矢野島でも一揆が起こり、上島にも波及して、一揆軍は富岡城を攻めます。この時、富岡城を守っていたのは、唐津藩の筆頭家老・三宅籐兵衛。籐兵衛はガラシャ夫人の甥で、肥後藩主の細川忠利の従兄弟にあたる人。本藩の唐津には2回ほどしか手紙を出していないのに、細川藩にはしばしば手紙を出しており、その親密ぶりが伺える。
三宅籐兵衛は本渡まで出張って、そこで討死し11月19日に一揆軍は富岡城に迫り、城を守る唐津藩兵約3000人に対して、城を取り囲む一揆軍は約1万人。総攻撃をかけますが、要害堅固な富岡城は、攻め落とすことはできませんでした。 連戦連勝の一揆軍「四郎様の神通力も費えたか」と落胆の中で、島原の一揆勢と合流し、島原の原城にたてこもり、幕府軍と対峙。世に言う島原の乱です。松平信綱率いる幕府軍によって、翌年の寛永15年(1638)2月28日に落城し、ここに乱は終息します。 領主、寺沢堅高は乱の責任を問われて天草郡を没収された。
天草・島原の乱後、天草は備中国成羽(岡山県高梁市)の山崎家治に与えられ、乱で損壊した富岡城を修築し、城郭を拡大するなどに着手したが、この普請は疲弊した領民にさらなる苦しみを味合わせものとなった。3年後、城の完成とともに家治は、讃岐国丸亀(香川県丸亀市)に転封。その後、天草はいったん天領となり、鈴木重成が代官として派遣され、重成は城下に住み、兄である宗洞宗の僧・正三の協力を得、天草に寺院を建てて領民の教化に努め、また、領民の年貢負担を軽減するため、石高を半減するようにと幕府に働きかけ、江戸の老中に懇請するも許可を得られず、承応2(1653)年10月15日。死を持って訴え切腹。重成の遺志は次の天草代官になった養子・重虎に受け継がれ、万治2(1659)年の検地で2万1000石への削減が認められた。
その後、天草は寛文4(1664)年、戸田忠昌が入封し23年ぶりに天草は大名領となった。 7年間藩主を務め、鈴木親子の政策を引き継いで復興に尽くしたが、寛文11(1671)年、奏者番・寺社奉行となり天草を去ることになり、ここで、富岡藩は消滅した。
幕府の命によって寛文10年(1670)に三の丸のみを残して、富岡城は壊され、再び天草は天領となり、富岡城には代官所(陣屋)が置かれ、明治維新まで富岡が天草の政治・経済・文化の中心として栄えました。