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須古すこ城跡
〒849-1104 佐賀県杵島郡白石町堤1505
<須古城パンフレットより>
「平成19年度 佐賀県中近世城館跡緊急分布調査 成果報告会 佐賀県の戦国城館の実像」 (県教育庁文化課作成) を元に、宮武正登作図「須古城中心部縄張図」 (『佐賀県中近世城館跡緊急分布調査報告書III 佐賀県の中近世城館 第3集各説編2 (小城 杵島 藤津地区)』 佐賀県教育委員会 平成26年3月) を一部改変。

【須古城】
室町期は在地領主平井経治(つねはる)氏の居城でしたが、16世紀後半、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が須古城を攻撃し、4回の攻防戦の末、天正(てんしょう)2年(1574年)に須古城は陥落。これにより、平井氏は滅亡。
天正3年(1575年)、隆信は須古城の大改修に着手し龍造寺隆信の居城となりました。この改修工事は領土拡大と並行して行われたと考えられ、現在確認できる須古城の姿が出来上がります。須古城在城中に隆信の領土は最大となり、現在の佐賀・長崎両県、福岡県の大半、熊本県の北半、大分県の一部である肥前(ひぜん)・肥後(ひご)・筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)・豊前(ぶぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)を網羅(もうら)する「五州二島の太守(たいしゅ)」と呼ばれる全盛期を迎えたが、天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)での有馬・島津連合軍との戦いで龍造寺隆信は戦死。
その後、須古城は、龍造寺隆信の異母弟の信周(のぶかね)が須古城に在城。信周は、白石統治の拠点としましたが、佐賀藩成立後は鍋島家重臣として須古の邑主(ゆうしゅ)となり、城内の一部は須古鍋島家の邸宅として利用されました。

※隆信の戦死により、須古城は北部九州の中心地としての地位を失い以後、城は須古鍋島(龍造寺) 家の居所として存続するものの、城内の一画のみを邸宅に利用し、城域の大部分の機能は事実上廃絶しました。


【須古城跡】
須古小学校の敷地を含む推定規模東西570m、南北600mを誇る戦国時代の城跡。城郭の構造は、「高城(たかじょう)」あるいは「隆城(たかじょう)」と呼ばれる標高42mの独立丘陵部と、その麓の平地部で構成され、佐賀県内最大の戦国期の「平山城(ひらやまじろ)」に分類されます。 曲輪(くるわ)(城の平坦面)、石垣、虎口(こぐち)(出入り口)、土塁(どるい)、濠(ほり)などの城郭を構成する基本的要素が確認でき、また、中心部のグランド・プランから戦国末期の築城技法に基づくものと判断でき、大半が隆信の所産であると考えられています。
腰曲輪(こしくるわ)西辺でみられる石垣は、未加工の自然石を垂直に近い角度で積み上げるなど戦国期の特徴がみられ、隆信によって築かれたと考えられます。ただ、須古城跡の石垣は外面が平滑(へいかつ)な石材を吟味(ぎんみ)し、部分的に平滑になるように加工した痕がみられます。このような、外観を意識した石垣は県内の中世城郭には見られず、隆信本城としての格式の高さをうかがわれ、須古城跡は、龍造寺隆信の全盛期の城であり、九州北半の中心地となった歴史的背景があります。また、戦国期の平山城としては佐賀県内最大規模を誇り、信周による改修や後世での改変を受けているとはいえ、隆信による普請(ふしん)の跡が良好に残っています。
西日本の代表的な戦国期城郭の一つといえます。



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