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志布志しぶし城跡
〒899-7102 鹿児島県志布志市志布志町帖6380
  • 城郭符日向国

  • 島津六代氏久公居城

  • 島津六代氏久公居城

城郭符3種


志布志城をCG動画で再現!「志布志城 1536」を紹介!
志布志市公式YouTube

志布志城の概要は、志布志市志布志町の前川河口部、シラス台地の先端に、内城・松尾城・高城・新城の4つの中世山城が存在。これらの山城を総称して「志布志城」と呼ばれる。
志布志は、万寿3年(1026年)に平季基によって開かれた大荘園島津荘の港として発達したといわれ、当時、志布志、松山と有明の東半分を中心とした地域は救仁院と呼ばれ、 平時代末期の文治5年(1189年)より救仁院氏が治めていた。
古くから志布志は、前川河口に堤防の様に存在する権現島のおかけで、天然の良港であり、海上交通の要所でした。中世においては、陸上交通より、 船で一度に大量の物資を搬できる海上交通の方が発達しており、そのため、この地を支配する事は重要な意味があった様。


志布志城の正確な築城年は不明とされていますが、南北朝の時代には松尾城と内城が存在していた事がわかっており、その後、高城と新城が築かれたと考えられており、 建武3(1336年)に、「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っており、この時の志布志城は、築城時期が最も早いと考えられている松尾城だと思われます。
その後、正平3年(1348年)に楡井頼仲が松尾城に入っていますが、延文2年(1357年)、大崎胡麻崎城と志布志城を攻略され、宝満寺で自刃したと伝えられており、 楡井氏の後は納氏が松尾城を治めていたが、志布志内城は新納氏と対立した畠山氏が有していた。この時点で内城と松尾城が存在していた事がわかります。


新納氏は島津氏久の救援を受けて畠山氏を攻め、志布志内城を占領。これにより志布志は島津氏久の所領となり、氏久が内城に入ったのは貞治4年(1365年)頃と推定。
長禄2年(1458年)以降、日向南部で伊東氏等との合戦が相次ぎ、志布志城は前線の拠点として利用され、天文5年(1536年)、島津氏内の勢力争いによって志布志城の新納氏は豊州 島津氏、北郷氏、肝付氏に三方より攻められて降伏しました。それにより、新納氏は志布志を去り、志布志城は豊州島津氏が治めることになった。


その後、永禄元年(1558年)以降、肝付氏が毎年のように志布志を攻め、同5年(1562年)に攻め落とされ肝付氏が志布志城に入ったが、その肝付氏も天正4年(1576年)には伊東氏に 敗れて勢力を失い、島津氏に降伏。同5年(1577年)より志布志は島津氏が領有するところとなり、志布志に地頭が置かれ、以後、大隅における島津氏の支配が安定したために、 前線の拠点としての志布志城の役割は低下し、結果として廃城に至ったと考えられています。



天正2年(1574 年)に伊東氏の援軍が内城に立寄った頃を想定して描かれた復元図。 左奥の大きな曲輪が曲輪3上段(本丸上段)、その下が3下段(本丸下段)。手前の2つの曲輪が曲輪2上段と下段。右奥に見える建物のない曲輪は曲輪4上段と下段中野久尾で、建物は省略されている。


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