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松江城
〒690-0887 島根県松江市殿町1-5

堀尾吉晴は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城。
しかし、月山富田城は周囲を山々に囲まれた中世以来の山城で、大砲などを使う近代戦に不利であったこと、また家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭く、交通も不便でした。 そのため宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。慶長12年(1607)に着工。5年間にわたる難工事の末、慶長16年(1611)に完成しました。城郭の広さは東西360m、南北560mもあり、 周囲に幅20~30mの内堀をめぐらしていました。その堀尾氏に替わって寛永11年(1634)若狭小浜から京極忠高が松江城主となり、斐伊川などの治水に努めましたが、寛永15年(1638)病死したため京極氏は 1代で終わりました。

同年、徳川家康の孫にあたる松平直政が信濃松本より18万6千石で入城。以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎えます。松平氏の中でも七代藩主治郷(はるさと)は政治手腕だけでなく、 茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在でもなお松江の人々に不昧公の名で親しまれています。

松江城は明治になって城内の建物は天守を除きすべて取り壊され、天守も米100俵(180円)で売却されるところでしたが、有志の保存運動で救われ、山陰地方で唯一の天守が今に残ることとなりました。

【神々のふるさと山陰】観光ポータルサイトより


国宝 松江城ホームページ

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