〒816-0901 福岡県大野城市乙金東4-9
福岡県糟屋郡宇美町と大野城市の境にある「井野山(いのやま)」は、標高236mの低山ながら、山頂から博多湾や福岡平野、三郡山系を360度見渡せる素晴らしいパノラマ眺望が魅力のスポットです。大野城市側では「唐山(からやま)」とも呼ばれています。
【歴史と唐山城趾のロマン】山頂は、戦国時代に大友氏方の安河内備前が居城とした「唐山城(からやまじょう)」の跡地です。太宰府から宇美へ抜ける「唐山峠」を監視するための重要な拠点として築かれました。
太宰府から宇美へ抜ける「唐山峠」を監視するための重要な拠点として築かれました。 石垣などの目立った建造物や遺構はあまり残っていませんが、山頂の展望台に立つと、当時の武将たちがこの地を重要視した理由がわかるほどの圧倒的な見晴らしを体感でき、山城の地形や歴史的なロマンを感じながら歩くのにぴったりの場所です。
登山口となる麓の「井野公園」から山頂までは片道約2km、45〜50分程度で登頂できます。ルートの大部分がアスファルトで舗装されているため歩きやすく、最後に100段ほどの階段や短い山道を登れば山頂に到着します。下山は分岐があり、そこから舗装道ではなく通常の登山道でげざんしました。
- 登山口と駐車場 : 麓の井野公園に数台分(5台程度)の駐車スペースがありますが、登山者ですぐに満車になることが多いです。
どういう城だったのか?監視特化の「遠見城」
太宰府から宇美へ抜ける交通の要衝「唐山峠」を見張るために築かれました。西に福岡平野、南に水城、北に立花山、さらに博多湾まで見渡せる絶好の立地でした。東城と西城の2拠点
山頂付近の主郭である「東城」と、そこから西へ約700m離れた「西城」の2つの峰で構成されていました。簡素な防衛設備
大規模な土木工事は行われておらず、現在も尾根を断ち切る「堀切」や、斜面に沿って掘られた「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」の跡がわずかに残る程度です。
向城として築城
1568年(永禄11年)
筑前を支配していた大友氏に対し、重臣の高橋鑑種(岩屋城主)が毛利氏に呼応して反旗を翻します。大友軍は太宰府・水城周辺のルートを通行できなくなりました。そこで、博多と本拠地・豊後を結ぶ別ルートを確保し、かつ岩屋城を牽制する「向城(むかいじろ:最前線の対抗拠点)」として唐山城が築かれます。当初は筥崎宮の座主が守将となり、1,500の兵が駐屯しました。大友方家臣の居城へ
1574年(天正2年)
宇美八幡宮側の記録では、この年に大宮司の神武氏が築城(改修)したとも伝わります。東城には安河内備前、西城には神武修理亮という、いずれも大友氏に属する人物が居城としました。立花氏の管理下へ
1578年以降
大友氏が「耳川の戦い」で島津氏に大敗を喫すると、筑前の豪族たちが再び一斉に反乱を起こします。大友氏の苦境が続く中、唐山城は同じく大友方である立花氏(立花山城)の接収を受け、由布氏などの家臣が在番して防衛線を支えました。廃城
1586〜1587年頃
島津氏の猛攻による岩屋城の陥落(1586年)や、その翌年の豊臣秀吉による九州平定(1587年)によって九州の勢力図が完全に塗り替わります。戦乱の終結とともに唐山城も戦略的な存在意義を失い、廃城になったと考えられています。