GREENFIELD-CLUB.JP


熊群山くまむれやま
▲ 熊群山
標高805m
コース

熊群神社駐車場 ⇨ 熊群神社参道 ⇨ 鳥居 ⇨ 神楽殿 ⇨ 鬼くずしの大岩 ⇨ 分岐 ⇨ 水場 ⇨ 護摩堂・社務所 ⇨ 九十九の石段 ⇨ 長い石段 ⇨ 熊群神社本殿 ⇨ 鎖場 ⇨ 鎖場(危険注意) ⇨ 数カ所の鎖場・ロープ ⇨ 石の祠 ⇨ 山頂台地 ⇨ 熊群山山頂

周囲を崖に囲まれたメサの山の熊群山には東岸寺(明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって廃寺)という寺院があつた。熊群大権現と呼ばれ、英彦山に属する天台宗の修験寺院。山道は険しい。中腹の熊群神社を過ぎると垂直に近い崖の鎖場があり、危険。ロープが頼りの急登もあり、標高の割に意外や意外侮れない。そのことから、山頂まで断崖と絶壁が続き、登山者のためにロープや鎖が用意されているが、熟練の登山経験を要すると言われる難所。
安倍三郎太夫藤原実任ノ碑があり、安倍宗任一族の配流地については色んな説があり豊後国もその一つで、大分地方の安部さん阿部さんは安倍宗任を祖とする伝承が多いそうです。 奥州の乱で滅ぼされた安倍氏、安倍宗任の三男で三郎実任が当地に住んで狩りをして時に熊の群れと遭遇。熊が去った後に釈迦・弥陀・観音の三尊像がありこれを持ち帰った。夢枕に彦山大権現が現れて山上に三尊を祀ったのが熊群大権現の起源となったそうです。
戦国時代は田北紹鉄(戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。)が熊牟礼城を居城としていました。遺構などは殆ど無いが、周囲の自然の地形から、天然の要害であることは容易に想像できます。 田北氏は大友氏2代当主大友親秀の三男から始まる一族です。直入郡田北村の地頭職でした。田北は今もある地名ですね。松牟礼城も田北氏の城。 1580年耳川の戦いの敗戦後に謀反を企てたとして大友軍に囲まれ秋月へ逃亡、日田にて討取られた。しかしこの謀反は田原親貫、秋月種実との共謀といわれているが田原親貫による陰謀説が強いらしい。策略家として知られる紹鉄らしくないけど、罠にかけられたのか? 古戦場として紹介されているけど、今でこそ道が良いが昔はかなり険しかった地域。どこに陣を張っていたんだろうか。城跡の雰囲気としては段々畑がある付近、社務所があるあたり、あとは山頂付近の平たい場所。時山へ向かう方向なのか?
熊群山くまむれさんの石段(由布市の伝説と民話)
昔、熊群山には鬼がたくさん住んでいました。鬼たちは里に出ては人を捕えて食っていました。ある時、村人の難儀を伝え聞いた権現(様神)様が山にやって来ました。そして鬼たちに「人を食うのをやめてここから立ち去ってほしい」と言いました。しかし鬼たちは「この山は古くから私たちが住んでいた所です。いかに権現様の命令であろうとも従いかねます」と抵抗した。そこで権現様は「それでは仕方がない。私もここで一緒に暮らすとしよう。
だがそのためには住むところが欲しい。手始めに石段を百段築いてくれまいか。ただし一夜のうちにだ。もし一夜のうちに築きあげたら、今まで通りに人を食ってもよろしい。そのかわりできなかったら山を去ってもらおう」と鬼たちに提案しました。鬼たちは喜んで「それはたやすいこと」と約束をし、夜になると早速仕事をはじめました。石段はみるみるうちに築かれていき、真夜中には八〇段にも達する勢いでした。これを見てあわてた権現様は、バッチョロ笠を手に山頂にかけ登りました。山頂に着いた権現様は、バタバタと笠を叩いて鶏羽音をまね、一声高く「コケコウロー」と叫んだ。これを聞いた里の鶏たちは、一番鶏に続けとばかり一斉に鳴き始めました。
びっくりした鬼たちは「しまった。もう夜が明けたか。あと一段で百段というのに」こうって鬼たちは約束通り山を去っていきました。今の熊群権現の石段が、この時鬼が築いた石段といわれています。《由布市立図書館》
熊群山の画像 画像をクリック→拡大
ページのトップへ戻る