鬼子嶽 (岸岳城跡) |
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▲ 鬼子嶽(岸岳城跡) | |||
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標高320m | |||
コース | 駐車場 ⇨ 岸岳城跡登山口 ⇨ 駐車場 |
【岸岳城の築城と波多氏誕生】岸岳城(きしたけじょう)は、佐賀県唐津市相知町佐里・北波多岸山にあった日本の城(山城)。もともとは鬼子岳城と書いた。
岸岳城には、波多氏改易後に多数の婦女子が身を投げたとされる「姫落とし」や、100名もの家臣団が集団で自裁したという伝承も伝わります。 全国各地に散在する「お菊伝説」に類似する唐津市相知町に「岸岳末孫一同の神」と刻まれた石塔が建つ。 いにしえの人々が生き延びるため霊を宿らせた末孫様。 神として深い畏敬の念を込め祈りがささげられている。と呼ばれる塚も、大手口にあったりします。塚に葬られたのはお万さんという女性で、波多氏時代に城内で働き、殿様の家宝の皿を管理したという。ところが家老の陰謀で皿を隠され、それがもとで責め殺されてしまった。お万さんは無実の罪を着せられたことになる。歌舞伎で知られる「番町皿屋敷のお菊」はお万の伝説から作られたといわれている。
岸山山頂部の尾根上に築かれた山城である。中世後期松浦党の棟梁とされた波多氏の拠城である。城跡遺構としては、石垣・曲輪・竪堀等の遺構が良好に残存している。
一条天皇の正暦2年(991)源頼光は肥前守に任ぜられ、当国に西下、渡辺源吾綱(渡辺綱)もこれに従って松浦の地に下向し筒井村に居館を構えた。(「前太平記廿一」による)この時の主従は聲望威勢は近隣に鳴り響いて、後の松浦党の基盤をつくったとされている。
渡辺綱は帰京後31年、万寿2年 (1025 )73才をもってなくなったが、綱の子、渡辺久は筒井源太夫と称し、父の居館筒井に住した。(北波多村史による)
藤原氏時代の末期は国司・郡司の退廃が続き、その乱れたなかで、71代後三条天皇の延久元年(1069)渡辺綱の曽孫源新太郎久は、肥前国松浦郡宇野の御厨検校(御厨とは神宮への貢進上納を司る役所)となり、検非違使(警察官兼裁判官で貴族や武士の登竜門)に補し、従五位下に叙せられ、源太夫判官と号し西下して今福の加治屋城に居を構えた。ここで久は初めて松浦を称し松浦源氏の祖となり、松浦・彼杵・壱岐・鷹島・福島・山代・有田等の広大な土地を領有し名実共に上松浦党の首領となる。
久の次男持は波多郷の領地を分封され岸嶽の要害に拠り、初めて波多氏を名乗り波多氏隆盛の基礎を築き、久安年間(1150年前後)あたりか?岸岳城を築城したとされている。 当時の岸岳城は天然の地を利用した木柵・土塀・小規模な石垣等、居館もなく、天然の要害を利用した山城。それから、400年余り十六代三河守親に至るまで、上松浦の宗家となり威勢をふるうことになる。
【波多家の滅亡】
豊臣秀吉が、征韓のため名護屋に本陣を定めたが、この地は波多三河守の所領であった。本陣をここに定めるについては腹臣寺沢志摩守(寺沢広高)に命じて事前調査も十分させた上、交渉をさせたが、波多三河守は領内民百姓のことも思い秀吉の気に入るような返事をしなかったらしく、先には秀吉の博多到着出迎え遅参のことやらもあって、秀吉の胸中には既に波多家改易、寺沢を後に封ずる考えがあったともいわれる。
波多氏(波多三河守親) は兵2000を引きつれ鍋島直茂の旗本として出征、大いに戦功を挙げて文禄三年 (1594)2月帰還したが、意外にも海上において黒田長政より秀吉の命が伝えられ、名護屋に船をつなぐことを禁じ、「上陸すべからず、領地は没収、身は徳川家康に預ける」という処分でした。まもなく、同年5月譴責状(処分の理由を述べたもの)とともに、常陸国(茨城県)筑波山麓に配流先が申し渡された。直ちにその所領一円は没収し、身は徳川家康に預けるという過酷きわまるものであった。
波多氏改易については、諸説があるのではっきりとはしていないようで、罪状などは罰せんがための口実に過ぎなかったか、また、波多三河守の内室秀の前の不首尾と言われていろこともある。
このことが岸岳城に報らされると、城内外あげて驚き、家臣らは馳せ参じて善後策についての大評定が開かれ、鶴田越前守をはじめ、一族旗下家臣らが集まり、言うまでもなく、畑津御嶽城の畑津内記、板木法行城の久我玄蕃允、木場城の隈崎素人も参加。 「某思うに、今名護屋御陣に切り入り八方に乱入し、潔ぎ能く討死せん事末代までの名誉なり。…城地を明け渡さぬ内、夜討ちの用意すべきなり」(隈崎素人・木場城)と、「血眼になりて申しける」と過激派の意見や、「一先づ城を明け渡し、知るべ知るべに引退き、忍び忍びに会合して謀計を廻らし、配所の主君を守り奉り一勢に旗を上げ、其時こそ討死して名を後世に残すべし」 (田代日向守)とした自重派。これに反論して「その評定もさることながら、とても今趣意を通さずば期して都に攻め登らん事思いもよらず…其存る所は、御母子佐嘉表へ送りまいらせ、名護屋の御陣へ忍び入り、一時に放火して焼き払い、火焔の中にて討死すべし」(井手飛騨守・向三郎・畑津内記)と意見が出る等、まとまらず。このような評定が何回も続けられたといわれており、結局は、「其主たる人なくしては成就しがたし」(黒川左源太夫・鶴田因幡守)の意見で、密かに常州へ赴き、主君を連れだすことで決着。(松浦拾風土記・岸岳城盛衰記)
岸嶽城は明け渡され、所領は志摩守(寺沢広高)に譲渡される。主君波多三河守の死亡説が流れ、再興の悲願を抱いていた家臣等は、四散し、その殆どが刀を捨て帰農や仏門に入る家臣もあったようです。反面、激しい怨みを抱きながら、主君の後を追い殉死した多くの人々もあったようです。(岸岳城盛衰記)
「松浦古事記」には、文禄3年3月8日30名、9日に47名の人が、城中、茶園の平、瑞巌等等で辞世の句を残し、或いは無念の涙とともに殉死したとあります。この中に、御嶽城主「畑津内記光方・大道月仙居士」の名があがっています。(殉死の期日は、主君の命日を9日-配流の日-としたため、それに合わせた作為であろうと岸岳城盛衰記にはあります) しかし、怨みは殉死だけでは終わっていないようです。慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いに従軍していた志摩守(寺沢広高)の留守をねらって、唐津を襲撃する反乱が起きるが、平戸藩主(松浦久信)の応援で「自ら潰ついえた」とあり、反乱を起こす程の者は、波多氏残党以外に考えられないと・・・。主君配流から6年後のことです。
また、殉死や自決に限らず、四散した地で生涯を閉じた岸嶽末孫の墓と聞く五輪塔が、畑津にも何か所かあり、粗末にすると末孫のたたりがあると伝えられています。
【鬼子岳城跡 法安寺】
由緒ある波多氏は没落以来確たる菩提寺すらないありさまであるが、有縁無縁の岸岳末孫と称する多くの輪塔が各所に散在して、今もって人々はたたりを蒙るといって恐れています。これは落城に際して無念の殉死をした家臣の怨霊がおさまるを得ずして成仏を求めているものという。
当寺第一世住職小野妙安師が勤行中に忽然として神仏が現われ「成仏できない波多氏一族の霊を弔うために四季おりおりの花を植え、水を供え岸岳山中茶園ケ平に木標を立て供養してくれるように又滝場を作り十三仏様を建立して弔い八十八ケ所の霊場を作ってくれ」との霊感を受けられます。よって師は志をけっして波多氏一族の追善供養のため同志とはかり、大正12年(1923年)2月12日当寺を開山されました。
本尊は大日如来というも実は岸岳悲劇の城主波多三河守をたとえたものという。
昭和27 年(1952)は開山30 年に当り、信者とはかり、釈迦涅槃の像をはじめ不動明王・弘法大師・蛇体不動等諸仏像百数十体を大岩壁に浮彫りして、新四国八十八ケ所霊場を建立した。なかでも釈迦涅槃の像は名実共に日本一の石仏と称せられ、その身長33 尺(10m)顔の長さ五尺(1.51m)という巨大なもので、昭和27 年2 月12 日開眼式が行われた。 現在では仏像が五百体にも及び境内一帯は、桜・梅・つつじ・あじさい・蓮が咲誇り荘厳と美観の霊域となっております。一方岸岳城跡登山口にあたり松浦党波多氏四百年の興亡を偲ぶ絶好のハイキングコースでもある。<鬼子岳城跡 法安寺パンフレットより>
【岸岳末孫(きしだけばっそん)】
岸岳城の歴史を語る上で欠かせないのが、壮烈な殉死を遂げた家臣たちの伝説が残る「岸岳末孫」の伝説。
波多家代々の菩提寺だった瑞巌寺跡に散らばる無数の輪塔は、主君を失った波多家家臣一同が、秀吉や寺沢広高を恨みつつ壮烈な殉死を遂げた場所(旗本百人腹切り場所)と言い伝えられています。 その時の辞世の句、数十首が『松浦拾風土記』に収録されています。 地元の方々は、この場所を「岸岳末孫」と呼び「雑な扱いをすると祟りに遭う」と言い伝えています。
例えば、農作業中や山仕事中に突然具合が悪くなったり、けがをしたりするのは、これに障ったせいによるたたりだといわれてます。
常に渇きに苦しんでるともいい、水やお茶をどんぶりや桶にたくさん入れて飲ませると、たたられたひとが回復するともいわれていたようです。
馬や牛が突然動けなくなってしまうのも、「岸岳末孫に憑かれた」などといわれてて、英彦山のおふだを食べさせたりすると動くようになるといいます。
岸岳城跡は史跡として観光スポットにもなっているが、地元の人は岸岳末孫の祟りがあると近寄らないらしい。
元は波多氏の菩提寺である竜谷山瑞巌寺があった場所は「旗本百人腹切り場所」といわれ、意味なく踏み込んだ者には祟りがあると言われている。