▲ 城山


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筑紫宮前駐車場 >十三仏ノ滝 >城山 >筑紫宮

▲城山
標高494.1m
勝尾城がいつ築城されたかは同時代の史料では不明です。後世に編纂された『北肥戦誌』によると、応永30年(1423)、九州探題渋川義俊の築城と 伝えられ、渋川氏が少弐氏との抗争過程において渋川氏によって築城されたようです。その後、少弐氏が東肥前を手中に占めて、勝尾城に入城しますが、 周防の大内氏と抗争において少弐氏の有力な家臣であった筑紫氏が大内方に属し、明応6年(1497)、筑紫満門が少弐氏を追い勝尾城に入城します。 弘治3年(1557)、筑前・肥前の支配者であった大内氏が滅び、新たな支配体制を巡り北部九州は争乱の場となり、豊後の大友氏と大内氏の支配を引き 継いだ毛利氏との争いとなります。その後、元亀元年(1570)には北部九州諸国は大友氏の支配下に属しますが、天正6年(1578)、日向の耳川合戦で 大友氏は薩摩の島津氏により大敗します。これを機に島津氏は九州制覇を目指し、天正12年(1584)の島原の沖田畷合戦では、肥前の龍造寺隆信を下します。 島津氏はさらなる勢いで北進し、天正14年(1586)年7月、勝尾城に2万余りに及ぶ軍勢によって攻められ、勝尾城は落城します。城主の広門は、筑後の 大善寺に一時幽閉されますが、同年8月に再びに勝尾城を奪還します。その後、すぐさま豊臣秀吉の島津攻めに従い、天正15年(1587)、島津氏は降伏し、 秀吉の九州国割りにより、城主の広門は、筑後国上妻郡の領主として鳥栖を離れます。なお、その後広門は、秀吉大名として2度にわたって朝鮮出兵に 従軍します。文禄の役(1592~93)では小早川隆景の第6軍として戦い明軍に勝利し、その功績により秀吉から感状を贈られます。慶長の役(1597~98)では、 倭城の守備についていましたかが、秀吉の死で朝鮮から撤退しました。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、広門は石田三成方の西軍に 属したことにより、筑紫氏は改易されてしまいます。そして事実上、歴史の表舞台から姿を消すことになります。<鳥栖市教育委員会より>
筑紫宮石段を登り、神社を抜けて城山登山道入口へ、川沿いを登って行も、石ゴロゴロで倒木もあり、意外と道が荒れていました。 城跡とあってか所々 に石垣が見られ。曲輪や空堀もはっきりわかります。 十三仏ノ滝辺りのロープ場を越えれば難なく山頂へ、鳥栖市街が一望できる展望は良好でした。 食事タイム後下山、下山後はいろんな史跡を散策、探訪し帰路へ。
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