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「九州の関ヶ原」とも呼ばれる石垣原(いしがきばる)の戦いの跡地は、現在の大分県別府市内に点在しています。
- 石垣原(いしがきばる)の戦いとは、1600年(慶長5年)に豊後国(現在の大分県別府市周辺)で起こった合戦です。天下分け目の「関ヶ原の戦い」とほぼ同時期に勃発したため、「九州の関ヶ原」とも呼ばれています。主に、旧領回復を目指す大友義統(おおとも よしむね)と、徳川家康(東軍)に味方した黒田如水(官兵衛)の軍勢が激突しました。
吉弘嘉兵衛統幸陣所跡
この「坂本」の台地一帯は、天下を二分して戦われた 関ヶ原の戦の昔前の慶長五(1600)年九月十三日に 西軍石田三成方についた旧豊後国主二十代大友義統と、東軍徳川家康方の前中津城主黒田孝高(如水)が激突した、いわゆる石垣原の合戦において、大友方右翼の将としてその名を馳せた吉弘嘉兵衛統幸の陣があったとされる。
吉弘統幸は旧主君挙兵の報を聞き、豊後立石村にはせ参じ、この合戦において鬼神のごとき活躍で二十数騎の敵将を討ち取り、黒田軍をおおいに苦しめたが、七番掛けて遂に力つき討ち取られたといわれる。 行年三十八歳であった。
- 石垣原古戦場跡・石碑
別府市の荘園エリアや南立石公園の付近がかつての激戦地です。荘園の住宅街の中にある小さな公園(石垣原古戦場跡)には、供養塔や碑が建てられています。
- 大友義統本陣跡
観海寺温泉の近く、小高い台地に大友義統が本陣を構えた跡があります。ここからは黒田軍の動きを見下ろすことができたとされています。
- 実相寺山(黒田本陣跡)
大友軍を迎え撃つため、黒田如水が本陣を置いたとされる小高い山(丘)です。山頂付近からは合戦の舞台となった石垣原の扇状地を一望することができます。
- 吉弘神社(吉弘統幸の墓)
大友方として奮戦し、この地で散った忠義の猛将・吉弘嘉兵衛統幸(よしひろ むねゆき)を祀る神社です。境内には彼のお墓や、辞世の句を刻んだ碑などが残されています。
映像はイメージです。実際には歴史上の戦とは関係ありません。
豊臣秀吉の時代、大友義統は朝鮮出兵での失敗を咎められ、領地であった豊後国を没収(改易)されていました。
その後、徳川家康と石田三成の対立が深まり「関ヶ原の戦い」が起こると、義統は毛利輝元(西軍)の支援を受け、かつての領地を取り戻すために豊後に上陸します。
一方、中津城(大分県中津市)にいた黒田如水は、家康の東軍として行動を開始します。如水は、九州の西軍勢力を討ち払うため、領内の金銀や兵糧を惜しみなく使って大量の浪人や百姓を雇い入れ、即席の大軍団を結成して大友軍の迎撃に向かいました。
激しい白兵戦の末、兵力と戦術で勝る黒田軍が大勝しました。大友軍は吉弘統幸などの有力武将を失って壊滅し、大友義統は黒田如水に降伏して出家することになります。
この勝利により、大友氏が大名として復権する道は完全に断たれました。また、勢いに乗った黒田如水はこの後も九州各地の西軍勢力を次々と平定していき、九州における東軍の勝利を決定づけることになります。