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鹿鳴越連山
(経塚山・七つ石山・板川山・古城山・百合野山)
コース

山田湧水登山口 >石切り場跡 >西の峠 >経塚山 >西の峠 >七つ石山 >板川山 >古城山 >東の峠  >百合野山  >東の峠 >長野登山口 >山田湧水

▲ 経塚山 ▲ 七つ石山 板川山いたごさん 古城山こじょうのやま ▲ 百合野山
標高610m 標高623m 標高603m 標高557.8m 標高568m
山田湧水に車を置き、西鹿鳴越道から経塚山を目指す。西鹿鳴越を越える道は通称「西鹿鳴越道」「宇佐道」と呼ばれ、1551年9月にキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが 大友宗麟の招きを受け、山口より大分に向かう途中に歩いた峠道との事。今は「ザビエルの道」と呼ばれ看板が立ててあります。
ザビエルの道の途中に「一目城・石切り場」があり、説明板に書かれている内容は「江戸時代から昭和初期にかけて営まれた石切り場で、良質な安山岩が採掘された。かって、 このあたりから日出城(暘谷城)を見渡すことができたことから一目城の名がついたといわれている。日出藩主木下氏が、参勤交代の折に使うの大阪港には、 一目城の石で作った灯籠が建てられ、他の地方からも石灯籠が持ち込まれたが、強い潮風に吹かれても一目城の石灯籠だけは崩れることはなかったという。当時、 松屋寺にある日出藩主歴代の墓石には、一目城の石が用いられたといわれ、高さ3mにおよぶ墓石を作るだけの巨大な原石は、なかなか採れないので、 見つかり次第、藩に届け出たといわれる。」
この辺りは、切り出した石が山積みされていた。ここを過ぎてしばらく登ると、ひらけたところに出て、そこにも説明版に「西鹿鳴越道からの眺望 豊前から豊後に通じる 街道は、江戸時代以前から、鹿鳴越峠を越えるのが通例だった。鹿鳴越峠は、立石から中山香・東山香を経て長野に通じる東鹿鳴越道と、宇佐から安心院を通って 山田につながる西鹿鳴越道の2つの峠道があった。1551年、フランシスコ・ザビエルは、山口から険しい山道を経て大友義鐘(宗麟)の待つ豊後府内に向かう際に、 ここを通り、日出の港に来航したポルトガル船に乗り府内へ向かったとされる。西鹿鳴越道上のこの地から、高崎山や別府市を望み、遠くは大分市も眺望できる。当時、 ザビエルもこの地から府内(大分市)を眺め、目的地を目前に何を思ったのだろうか。」と書かれている。
ここを過ぎて西の峠へ、先ずは、速見大田ふれあいロードに出て150mほど舗装道を歩くと、経塚山への道標があり左に折れ電波塔の方へ歩く。経塚山はミヤマキリシマの 純粋種が群生しており開花は5月上旬との事。西の峠へと戻り七つ石山へ、七つ石山からは別府市街、大分方向、日出、国東方面が見渡すことが出来る。板川山は途中の ピークといった感じ、古城山に登る道は頂上手前の急登にロープがあり、地面が湿っていたので滑るのでありがたかった。東の峠から百合野山を目指すルートは通称 「東鹿鳴越道」「豊前街道」と呼ばれ、日出藩主も利用していたことから、「殿様道」とも呼ばれている。百合野山への道は、林道が枝葉のように通してあり、かなり 寸断されていたが、目印があり迷うことなく行ける。分岐まで戻り長野登山口へ登山口には、また説明版があり「殿様道 江戸時代、日出・富岡と山香との往来は鹿鳴越連山 を越える2本の道によって行われていました。1本は西隣りの山田から山香の日指を経て宇佐郡の佐田に抜ける西鹿鳴越道。もう1本は、この長野から東山香・中山香を経て 立石に至る東鹿鳴越道です。日出藩主も、この道を利用していたので地元の人々は殿様道と呼んでいました。ここから少し上がった所には、殿様の籠を置いた籠置き 場跡もあります。明治25年に赤松経由の新しい道路(現在の国道10号線)ができましたが、鹿鳴越道の方が近道だったので昭和20年代まではこの道がよく利用されていました。 」と書いてあった。
長野登山口から舗装道を歩き山田集落を抜けて山田湧水へと到着。
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